「歩くような速さで」を読みました。
映画監督 是枝裕和さんのエッセイ集。
読後の印象は、とても晴れ晴れしかったです。
いたずらに、掻き立てられたり、落ち込んだりしない。
それこそ歩くような速さで自分の心理が反応していました。
自動車のような排他的なスピード感ではなく、
徒歩という許容的なスピード感でまちを体感する、まさにあの感じ。
映画監督の心構えというか、ものごとの見方や良心が、
正直に書かれている気がしました。
それらは何も映画監督に限ったことではなくって、
むしろ、どんな職業であろうとも、
現代の私たちの共通認識みたいな、普遍的な価値観を提示しているように思えたのです。
子ども頃や思春期に経験したエピソードが、かたちを変え、
というかけっこうそのまま、自身の映画やドラマに使われていることを知りました。
ごくごく個人的な価値観や経験談が、いっきに国際的な普遍性を持つことがあるということを。
特に共感できたのはこの一節。
「僕が作品を生んでいるのではない。作品も感情もあらかじめ世界に内包されていて、
僕はそれを拾い集めて手のひらですくい、ほらっと見せているに過ぎない。作品は世界との対話である。」
建築もしばしば、設計者をして作品と呼ばれる事があります。
そのこと自体は慣習的なことだと思いますが、
それ以上に、建築は設計者なり施工者なりが自然を征服して全人工的に作品になっているという、
心持ちのほうがずうっと違和感があります。
是枝さんの作品のように、建築のかけらを拾い集めるように建築を作れたりはできないだろうか。
建築が、対話やコミュニケーションを生むように、丁寧に。